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科学と信仰が交差するとき、真実は姿を変える――『一次元の挿し木』の深い闇

紫陽花の花と骨の手が交差する印象的な表紙。DNAと信仰、家族の謎が絡み合うミステリ小説『一次元の挿し木』を象徴するビジュアル。 松下龍之介

1. 湖から現れた骨と、妹のDNAが一致するという衝撃

冒頭、湖の底から発見された200年以上前の人骨と、現代のDNAが一致するという異常事態から物語は動き出します。DNA鑑定の結果、その骨と一致したのは、行方不明となっていた少女・紫陽(しはる)。思わず「なぜ?」と問いかけたくなるような、不穏な空気が一気に物語を包み込みます。

主人公・七瀬悠(はるか)は、大学院で遺伝人類学を学ぶ若き研究者。遺伝子に関する深い知識を持つ彼が直面したこの謎は、単なる学術的な興味を超えて、やがて個人的な過去、家族の歴史、そして国家レベルの闇へと繋がっていきます。その一歩一歩が、読者にとっても“常識”を疑う旅の始まりとなるのです。


2. “存在しない妹”をめぐる狂気と混乱

悠にとって、紫陽は確かに“存在していた”妹です。しかし、彼が語るその存在は、周囲から「記憶違い」「妄想」「捏造」と否定され続けます。血縁者である父・京一でさえ、彼の記憶に疑いを持ち始めるほどです。

「誰にも信じてもらえない」という孤独、そして「本当にあの子はいたんだ」と叫びたくなる焦燥感。読者も悠と同じく、「紫陽は本当に存在していたのか?」という迷路に迷い込むことになります。

彼の目の前で次々に起きる異常な出来事。ある記者との接触、不可解な骨、情報提供者の失踪、研究者の不審死……。どれもが断片的で、まるで意図的に“つながらないように”仕組まれているかのようです。その背後にあるものは一体何なのか? 読者は悠とともに、疑念と不安の渦の中に身を置くことになります。


3. 牛尾、“ちゃぽん”——正体不明の恐怖

本作のなかでも、読者の記憶に深く残るのが「牛尾」という謎の男の存在です。巨大な体格に無言の圧、そして彼の持ち歩くポリタンクから聞こえる“ちゃぽん”という音。その一滴が、静かに読者の背筋を凍らせます。

牛尾の登場シーンは決して多くありません。それでも「何かがおかしい」と感じさせる描写が積み重なり、いつの間にか彼の存在が読者の中で“恐怖”に変わっていくのです。明確な説明がないからこそ怖い。“恐怖の正体”を想像する余地を残す描写が、読者の心にじわじわと染みこんできます。

そしてその“ちゃぽん”という音が、一種の呪いのように頭から離れなくなる。ページを閉じても消えない不安。それこそが、この作品の恐ろしさの本質かもしれません。


4. 宗教団体と企業の繋がりがもたらす静かな戦慄

物語の鍵を握るのが、「樹木の会」という宗教団体と、かつての製薬会社の関係です。この繋がりが明らかになっていくにつれ、「信仰」と「科学」、そして「政治」が交錯し、事態は静かに、しかし確実に異常へと傾いていきます。

宗教というものは、本来人の心を救うものです。けれど、その“救い”が“支配”に変わったとき、物語は一気に緊張感を帯びてきます。

何かを信じる心が、大きな組織に取り込まれ、巨大な力となったとき、個人はどうなるのか。そうしたテーマが、日常のすぐそばにあるリアルさで描かれているのも、この作品の怖さの一つです。

特にこの章では、「見えない支配」と「声をあげられない沈黙」が物語を支配し、読者自身も「真実って誰が決めるの?」と問いかけたくなるような感覚に包まれることでしょう。


5. 真実を覆い隠す霧と、静かな光

終盤に向けて、物語は驚くほどスピーディーに展開していきます。次々と明かされていく事実、そして過去のつながり。複雑で絡み合った出来事が一本の線に繋がったとき、あまりにも切ない真実が見えてくる。

人は、自分の記憶や感情をどれだけ信じていいのか。過去に誰かと交わした約束や、守ろうとした存在が、本当に“あった”ものなのか。悠が最後にたどり着く答えは、決して声高に叫ばれるものではありません。

それでも物語は、暗闇の中に小さな光を差し込みます。「本当に大切なものは何か?」を問いかけながら、主人公がたどりつく選択には、希望の余韻が残ります。そしてそれは、読者自身にも「あなたが信じたいものは何ですか?」と静かに問いかけてくるのです。


6. 初心者でも読みやすく、物語に没頭できる構成

登場人物は多く、視点は複数。でも、混乱することなく読めるのは、構成が非常に丁寧だからです。章ごとに視点が切り替わり、今誰が語っているのかが明確。物語の流れに自然と引き込まれていきます。

また、文章はとても平易で、専門用語が出てきても説明が自然。ミステリーやサスペンス初心者でも、安心して読み進めることができます。読んでいる最中、まるで映画を観ているかのように、情景が脳裏に浮かぶ感覚が心地よいです。

特に印象的だったのは、“情報の出し方”がとても上手な点。読者にすべてを与えるのではなく、適度に「想像させる余白」を残してくれることで、読書体験に奥行きが生まれます。読者自身が考え、推理し、感情を寄せながら進んでいく——そんな参加型の読書が楽しめる作品です。


7. 『一次元の挿し木』はこんな人におすすめ

  • 謎が少しずつ明らかになる物語が好きな人
  • 遺伝子や記憶、存在といったテーマに興味がある人
  • 宗教や組織をめぐる社会派サスペンスに惹かれる人
  • 映像的な描写で没入感のある物語を楽しみたい人
  • 読後に“静かな感動”が残る作品を探している人
  • 読んだあとに誰かと感想を語り合いたくなる物語が好きな人

まとめ:誰かを信じ抜くことの尊さを描いたミステリー

『一次元の挿し木』は、「存在するとはどういうことか?」という根源的な問いを、遺伝子という現代的なテーマから静かに、しかし深く掘り下げていく物語です。

冒頭の違和感がじわじわと広がり、やがて物語は思いがけない方向へと進みます。派手な展開ではなく、読者をじっくりと物語の奥へ引き込むような深さがありました。まるで静かな湖の底に潜っていくような、そんな読書体験です。

松下龍之介さんの筆致は、デビュー作とは思えないほど精緻で、物語の構造と感情の揺らぎを丁寧に描いています。「またこの作家の本を読みたい」と心から思える、そんな出会いをもらいました。

登場人物たちの葛藤や心の動きが丁寧に描かれているからこそ、物語の緊張感や感情の深みが読み手の心に届きます。読み終えたあとも、その余韻が静かに胸に残り続ける、印象的な一冊です。

じっくり物語と向き合いたいときに、心を澄ませて読んでみてほしい。静かな衝撃とともに、「人が存在する」ということの意味に、そっと触れられるはずです。


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